"困ったときには、この手の形"

ドイツ優勝で幕を閉じたW杯からもう2週間近く経つ。
ときどき録画していた試合を見て過ごしているが、ニコ・コヴァチ監督が胸に手を当てて国歌を歌っているシーンを見たとき、かなり昔に「美の巨人たち」で放送されたエル・グレコ『聖衣剥奪』の回を思い出した。

放送が開始された当初の、この番組のクオリティーの高さには毎回唸らされた。テーマとなる作品を紹介するための筋立て、要所で流れる選びぬかれた音楽。そしてこれは今も変わらない、小林薫氏の酸いも甘いも噛み分けたナレーション。この『聖衣剥奪』の回も放送開始当初に放送されて、録画をしたのはVHSビデオデッキだった。


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愛娘を亡くしたばかりのペドロさんは、2週間前にピレネー山麓の村を出発し聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の旅に出た。その途上、彼はトレドに向かう。その目でどうしても観たいものがあったのだ。トレドの大聖堂にある『聖衣剥奪』。肉体は失くしてもその魂を地上に留める彼の愛娘は、誰にも見咎められることなく、父のトレド行きに付き添う。

放送はそんな筋立てで、グレコが絵を描いて生きるため数々の辛苦に立ち向かわなければならなかったことと、ローマを去ってトレドに来たいきさつ、トレドを自らの新天地とするために全身全霊を籠めて描いたのが『聖衣剥奪』であったことがナレーションで語られた後、『聖衣剥奪』に描かれた謎が提起される。

"では最後の謎です。キリストの不思議な手の形。苦しみと哀しみに打ちひしがれたとき、生きてゆくために…"

謎を解く鍵は、イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラが著したグレコの愛読書「心霊修養」の中にあると云う。

 "手の指を開き 中指と薬指だけを閉じなさい
  罪が犯されるとき、人生の中で困難に出遭ったとき、
  絶望の淵に立たされたとき
  その手を痛みつづける胸に当てなさい"

そしてナレーションはこう締めくくる。

--- 困ったときには、この手の形。誰かがあなたを救ってくれる ---

トレドの絡み合う路地で迷子になった娘が父を見つけたとき、父は『聖衣剥奪』の絵の前で胸に手を当てて泣いていた。娘はあることに気づく。父はあの手の形ができなかったのだ。娘は云う、「そんなお父さんが好きだった」。念願を果たしたペドロさんは巡礼の旅へと戻り、娘の魂は地上から去る。

『聖衣剥奪』が画面に映し出されるときに流れる「アダージョ ト短調」、他のシーンでは「小フーガト短調」「アルハンブラの想い出」、昔々のTVCM"サントリーRoyal ガウディ篇"のBGM、「カッチーニのアヴェ・マリア」など、音楽も秀逸でテーマを一層ひきたてていた。

このイエス様の手の形、右手ではすぐできるけれど、左手はその瞬間に構えてしまうと少しプルプルしてしまう。国歌を歌うわけではない私は胸に当てる手をこの形にして、コヴァチ監督の胸の痛みが少しでもやわらぐよう、クロアチアの誇りのために闘い続ける指揮官に幸運が訪れるよう、祈りを捧げる。

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