「謎ときガルシア=マルケス」を読む前に映画「エレンディラ」

ガルシア=マルケスが亡くなってもう4ヶ月も経ってしまったのか。
図書館に予約を入れていた「謎ときガルシア=マルケス」がようやく手元に。

高校の日本史の授業で、銀縁のメガネをかけ無精髭を生やして、よれっとしたスーツがトレードマークだった教師が、おもむろに映画「エレンディラ(ERENDIRA)」の話をはじめたときのことは今でもよく覚えている。

それは、自らの過失で祖母の持っているすべてを燃やしてしまった少女エレンディラの物語。燃えてしまった財産を贖わせるため孫娘の身体を売って砂漠を旅する祖母。やがてエレンディラは恋に落ちて、その恋人の手にかかって祖母は緑の血を流して死に、エレンディラはどこかへ走り去る…。

語るに連れて感情をどんどん昂らせてゆく教師に最初は引いていたが、語られた幻想的なイメージの断片〜宙を泳ぐ魚、緑の血、そしてラストシーンの描写〜が一体となって、原作者であるガルシア=マルケスの名が深く刻み込まれた。

すぐに原作の短篇も読んだし、その他の短篇や『百年の孤独』も読み漁り、映画「エレンディラ」もビデオを借りてきて観た。OPの少し悲しげで物憂い感じの音楽がまず好みだった。アマディスという姓が刻まれた寂しい二つの墓が映し出され、エレンディラのモノローグで物語は開始される。

 "祖母が入浴してたとき ・・・ 不運の風が吹き始めた"

不運の風は睡魔に襲われたエレンディラの隙をつくようにろうそくを倒し、祖母の屋敷も財産もなにもかもを燃やしてしまう。 映画の原作は「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」という短篇に、「愛の彼方の変わることなき死」という短篇が巧みに組み合わされていて、その部分がなぜだか特に印象に残っている。

エレンディラは祖母の言いつけで町の有力者のもとへ着飾って出かける。屋敷の外のベンチに坐って待っていると、蝶の形をした紙がひらひらと宙を舞っているのを見つける。エレンディアが追っていくとそれは壁に止まる。紙だったものはリアルな蝶の姿になり壁に同化してもともとそこにあったかのように壁に描かれた蝶になる。

待っていた町の有力者が現れ、エレンディラが彼と屋敷の中に入ると、扇風機の風に煽られて数多の紙幣が部屋の中を舞っている。。。東京事変の『今夜はから騒ぎ』のPVを観たとき、すぐにこのシーンが思い浮かんだ。この曲とPVはとても好きでよく観るのだが、終盤の、宙を乱れ舞う紙幣に向かって両腕を掲げ、墨染めの袖をなびかせて微笑む浮雲氏のショットと、その後の演奏シーンでの氏の横顔と喉ボトケにいつも見惚れる。

エレンディラに恋をするウリセスの、繊細で儚くて、エレンディラの祖母に"天使"のようだと形容される美しさ、祖母の「オルフェウスの窓」のラスプーチン並みに強靭な生命力(=毒が効かないこと)と刃物を刺されたときに流れる緑の血。。。ガルシア=マルケスその人が脚色しているだけに、原作に忠実に表現され、そのラテンアメリカ✕超現実的世界観は映像と音による刺激によってより一層高められている。

"彼女の不運の元になった『風』"や"土煙の向こうに現れた、行く手を阻む十字架を掲げた伝道師の一行"、"密輸商人が運ぶダイヤモンド入りのオレンジ"... 随所に現れるモティーフは詩的で童話的である。ときに猥雑でときに静謐。美しく幻想的なシーンと台詞が散りばめられ、映像はどの場面も絵になって、音楽もすばらしい。

映画のラスト、エレンディラの祖母をその手にかけ、精も根も尽き果てているウリセスを置き去りにして、エレンディラは祖母の黄金のチョッキを掴んで、砂丘を走り去ってゆく。

始まりがそうであったように、彼女のモノローグが物語を締めくくる。


            "私は鹿よりも速く風に向かって走った
             誰の声も私を止めなかった
             私の不運の行方を知るものはいない"


モノローグが終わる頃には、エレンディラの後ろ姿も砂丘の向こうに消え失せて、砂の上に足跡だけが残される。

"最後、エレンディラの足跡が血のように真赤に染まるんですよ”

ラストシーンについて熱く語った日本史の教師の口調が今も鮮明に蘇る。やがて画面全体が赤く染まって血の色だった足跡は黒い影になり、残像を刻印する。

 #Garcia Marquez #erendira #bookweb clap!

"僕の手・・・" 〜 映画『Santa Sangre』



アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「サンタ・サングレ 聖なる血」のビデオを数年ぶりに観た。

これまで鑑賞した中で1,2を争うくらい好きな作品だが、観たいと思う気持ちと自分の状態が合致しにくくて遠ざかってしまっていた(同監督の『エル・トポ』も同様で、好きなのだけれどもう何年も観ていない)。初めて観たのはもう随分と前で、深夜にTV放送された時に予約録画をしたものの、なかなか観られず時間がかかった。観る勇気がなかったからだ。

この作品の存在を知ったのは、当時新作が出ると欠かさず読んでいた原田宗典氏のエッセイに書かれていたからだった。"ホドロフスキーとグリムの血"をいうタイトルでそれは記されていた。

グリム童話はなかなか侮れないというイントロダクションに続いて、ひとつのグリム童話『手なし娘』が例に挙げられる。以下氏のエッセイから抜粋してみる (source : 1992年 大和書房;1996年 集英社文庫「できそこないの出来事」)。

"貧しい粉ひきが悪魔に出会い、「水車小屋の裏にあるものをくれると約束したら、お前を金持ちにしてやる」と持ちかけられる。水車小屋の裏にはリンゴの木しかないので、粉ひきは喜んでその申し出を受ける。ところが家へ帰って水車小屋の裏へ行ってみると、そこには自分の娘が立っていた。やがて悪魔は娘を引き取りに来るが、娘の両手が清められているために近寄ることができない。そこで悪魔は「娘の両腕を切り落とせ」と粉ひきに命じる。娘はそれを聞いて、健気にも両腕を差し出して切り取らせる……。"

氏はこの童話と似通った話をどこかで聞いたような気がして、二日かけてあるビデオに思い当たる。それがホドロフスキーの『サンタ・サングレ 聖なる血』だった。氏のエッセイはこう続く。

"この作品に登場する主人公の青年の母親は、両腕がなかった。全身に刺青を入れた女と乳くり合う自分の亭主を見つけて逆上し、劇薬を彼の股間にぶちまけたところ、怒りをかって両腕を切り落とされてしまうのだ。"

一体どんな映像なのか・・・
エッセイは、この作品の"隅々まで行き渡った監督ホドロフスキーの特殊な美意識に圧倒され、胸の中がざわざわした"と、”陰惨きわまりないストーリーが展開され一部ではホラー映画として取り沙汰されかねない内容であるにもかかわらず、凛とした美しさを保ち、どこかしら懐かしい雰囲気を漂わせているのではなかろうか”と結びの手前で綴っていた。

これはぜひ観たい。そう思った情熱が少し薄れてきた頃に放送があったのだと思う。予約録画をして、しばらく経ってから鑑賞した。


俗の中の聖、穢の中の清純。
凄惨さや、人の世の穢さの一切は浄化されて、美しい映像とせつない音楽が幻燈のように頭の中を巡りつづける。

少年魔術師フェニックスと少女曲芸師アルマの出逢い、ふたりの交感、鼻から血をぼとぼとと流して死んでいく象、その象を仲間として見守り、葬列に喪服でつき従うサーカスの団員たちと彼らに漂う物悲しさ、一見おぞましく思えるフェニックスの母が崇める両腕のない聖母を祀った粗末な教会の内部の静謐さ、フェニックスを慈しみ支える友達="世界一小さな象使い"のアラディンそして道化師たち。

真っ昼間から飲んだくれている父親、身をくねらせる刺青の女、俗物の町の司教。これから象の棺が落とされるその谷底で待ち受ける野人たち、テレビで見る映画の中のミイラ男になりたいと願うフェニックスが調合する怪しげな薬、死んでしまった象の如く鼻から血を滴らせるフェニックス・・・グロテスクだったり滑稽だったり胸が悪くなるような描写の洪水の中にあって、原田氏云うところの"凛とした美しさ"が際立っている。

終盤、フェニックスが母親の呪縛から解放されると、それを待っていたかのように道化師たちは手を振りながら消え去る。友達のアラディンもフェニックスにサヨナラを言って、後ずさりながら姿が薄れて消えてゆく。

ラストシーン、フェニックスは父と母の惨劇が起きる前、あどけない少年だった頃となんら変わりのない無垢さで、愛おしそうに上に掲げた自分の両腕を見つめて「僕の手」と何度も繰り返す。すべてはこのラストシーンのため。
不死鳥は解き放たれ、羽ばたく。

 
 

"私は手を差し延べ、我が魂は
渇いた地のようにあなたを慕う

道を教え給え
我が魂はあなたを仰ぐ"      

                  詩篇 143.6,8




"I stretch out my hands to thee:
 my soul thirsts for thee like a
 parched land...
 Teach me the way I should go
 for to thee I lift up my soul."

              Psalms, 143.6,8.



フェニックスとアルマのシーン、アラディンや道化師たちとのシーンで流れる音楽がとても好き。ラストシーンに上記詩篇の字幕がかぶさりEDクレジットへ。EDテーマが特にいい。→  



後日、録画したビデオは妹に譲って市販のビデオを購入した。そのパッケージの解説面にこうあった。

天使のファンタジーか?悪魔の地獄絵か? "

まさしく。



"道化師"といえばフェリーニの『道化師』、 ルオー, 三岸好太郎の絵画。"ナイフ投げ・曲芸師"で思い浮かぶのはルコントの『橋の上の娘』, フェリーニ『道』。先月だったか先々月だったか、最高画質版の『道』をTVで観た。ザンパノとジェルソミーナが旅の空の下で知り合う、自分の宿命を受け入れて慎み深く慈愛に満ちて生きる修道女の生き様に惹かれた。

久しぶりに『橋の上の娘』が見たくなった。

 #Santa Sangre #Jodorowskyweb clap!

聖夜に『疲れた太陽』

この曲を初めて耳にしたのは映画『白の愛』の中の登場人物が口笛で吹いていたシーンだったと思う。東欧の哀愁をひしひしと感じて深く胸に残った。
次に聴いたのはノルシュテインの『話の話』。幸せそうな恋人たちがこの曲に合わせてタンゴを踊る。そうしている間に男たちがひとり、またひとりいなくなる。男たちは戦地へ送られたのだ... この作品ではバッハの平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第8番 変ホ短調プレリュードが流れる一連のシーンもとても好きだ。
3度目に聴いたのがニキータ・ミハルコフ監督の『太陽に灼かれて(Burnt by the sun)』。
オープニングクレジットでそれは流れる。

 
 "偽りの太陽が昇る
灼き尽くされた海を
そのとき君は言った
もう愛していないと
 
私の心は恐怖でこわばる
でも痛みや哀しみはない
朝の光の中で君は言う
もうこれで終わり
 
ケンカはやめよう
こうなる運命なんだ
君と私どちらも同じ
 
偽りの太陽が昇る
灼き尽くされた海を
そのとき君は言った
もう愛していないと"

(日本語訳: 字幕より) >♪ 

光に満ちあふれたような日々を送るマルーシャの元に突然現れる幼なじみのミーチャ(Oleg Menshikov)。彼が放つピンと張りつめた緊張感。。。
 
歌詞を知ってなおさらこの曲が好きになった。

#​Burnt bu the sun #Oleg Menshikov #Nikita Mikhalkov #cinema <a href="http://grisaille.main.jp/patipati/index.cgi" target="new" title="読んでくださってありがとうございます!クリックしていただけると嬉しいです" alt="読んでくださってありがとうございます!クリックしていただけると嬉しいです"><img src="http://grisaille.main.jp/patipati/img/clapzero2.gif" onmouseover="this.src='http://grisaille.main.jp/patipati/img/clapthanks.gif';" onmouseout="this.src='http://grisaille.main.jp/patipati/img/clapzero2.gif';" align="right" alt="web clap!" border="0"></a>

青春の軌跡 〜 映画「青い棘」

この前TVのチャンネルを換えていたら映画が終わるところだった。
番組表を調べると「青い棘」(2004年ドイツ)とあった。
ピアノが少し哀しげな旋律を奏で始めると、続いてトム・ウェイツを彷彿とさせるボーカルが被さって来た。

"遠ざかるにつれて近づく
もっと遠くへ行こう
孤独な魂が求める場所へ
長い旅路をたどって"



キャストを知らせる画面が切り替って、穏やかなフィルターを透過した、眩しい陽の光が照らし出す真っ白なシャツにネクタイ姿の青年が、自転車にふたり乗りしてはしゃいでいる映像が映し出された。


"善悪の彼岸を渡る
これが敗北の道でもいい
時計が時を刻む
休息のひと時を

今こそ飛び立とう
この絶望の場所から
この希望の場所から"


曲/詞 『For now』 Thomas Feiner (日本語字幕:古田由起子) >♪



思わずアンダーラインを引きたくなるような2、3のフレーズに身をつまらせつつ、この楽しげだからこそどこか哀しいシーンは、ふたりが過ごした一番楽しかった時間のひとコマで、きっとどちらか一方あるいはふたりもろともにこの世の人ではなくなるのだろうななどと映画の中身について想像しながらエンドロールが終わるまで観ていた。

再び放送があったとき、録画をして最初から観た。
エンドロールの映像ではよくわからなかったのだが、ふたりのうち主役と思われる青年は予想と異なっていたが、もうひとりは繊細でありながらその全身からデカダンスな香りが漂っていて、期待を裏切らなかった。誰もが彼女を愛してしまうという彼の妹役のキャスティング、別荘の雰囲気、どこまでも美しい映像も好みだった。

片や上流階級のデカダンスを、片や会うものを虜にする魔性を見事に体現した兄妹に脱帽。そしてなによりもやはり、エンドロールの映像と曲の組合わせが絶妙なのだった。



全て録画しながらもエンドロールの部分ばかり観ていたら、コドモが「これどんな内容なの?」と訊いてきた。彼は映像のイメージから、ふたりの様子そのままの楽しい作品を想像したらしい。そのポジティブさが胸に刺さった。
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不気味なくせに愛らしい

Buffalo'66 サウンドトラック




今Buffalo'66のサントラを聴いている。疲れ気味のときちょうどいい感じの曲が多くて心地いい。もう何年も前のこと、借りてきたビデオに入っていたBuffalo'66の予告篇で、King Crimsonの"Moonchild"をBGMにムチムチなクリスティーナ・リッチがタップダンスしているシーンを観たときの衝撃は忘れがたい。
『スリーピー・ホロウ』の美しさや『モンスター』の後味の悪さを引き摺る怪演も印象的だったが、クリスティーナ・リッチといえばなんといっても『アダムスファミリー』のウェンズデーであろう。

コドモが2歳か3歳だった頃TV放送された『アダムスファミリー』に母子ではまり、その気に入りっぷりを見ていた妹が、コドモのブルーナさんの絵本にでてくる三つ編みのお下げ髪の女の子のお人形をウェンズデーちゃんと命名したりしたものだ。

まだあどけないはずのクリスティーナ・リッチが演じたウェンズデーは、周囲の大スター=パパ役ラウル・ジュリア、ママ役アンジェリカ・ヒューストン、フェスターおじさん=クリストファー・ロイド…に負けず劣らず、すばらしい存在感を放っていた。不気味なんだけども見慣れてくると可愛いくて、危険察知能力に長けている(一家にとってよからぬ企てを察知するのはいつも彼女だ)。IもIIもどちらもいいけど、ルックス的には身体が小さい分Iの方がより可愛かったか。
不気味で世間のものさしからずれてるけれど、その根底でありえないくらい家族愛に満ちて一族郎党結束しているところも、この作品が好きな理由の一つなのかもしれない。

IもIIもレンタルビデオで何度も借りて観たが、このシリーズとゴッドファーザーI,IIに限ってはTV放映時の日本語吹替えに限る(その他は字幕派だけど)。ゴッドファーザーで言えば、ドン・コルレオーネ=鈴木瑞穂氏、マイケル=野沢那智氏の今となっては懐かしくなってしまったあの吹替えである。

あの声、あの言い回し…"眼鏡は顔の一部です"じゃないけれど、メインから脇を固める面々まで脳裏に刻み込まれたあの吹替え音声は作品の大事な一部となっている。

期間限定でスペシャル・エディションが発売中の『太陽がいっぱい』のDVDには、TV放映時吹替音声が収録されているらしい。ゴッドファーザーでもやってもらいたかったなぁ…
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リメイク版と続編と"Ivanhoe"

リメイク版『オーメン』をTVで観た。
今より何十倍も感受性豊かだった子供の頃に観たせいか、1976年に公開されたオリジナル版『オーメン』はいまだに強烈なインパクトを残している。聖歌隊の響きにのせて、目に見えない人知を超えた力が、邪魔になった者を滅ぼしてゆく恐ろしさ…

でリメイク版であるが、舞台が現代に置き換わっているところ以外はオリジナルにほぼ忠実。バチカン天文台の天窓が開くところから始まるオープニング、ローマの喧騒シーンに続いて登場する不吉な老人によって、ロンドンで大使になるはずだった男の乗った高級車が猛火に焼かれ吹き飛ぶまでの流れなどはなかなか。キャスティングは問題外なダミアンがブランコで遊ぶシーンの公園の雰囲気や馬の遊具がいい。全体の映像の感じも嫌いじゃない。が、キャスティングで魅せていたオリジナルを知る者にとってあのキャストでは入り込めない。結果として、オリジナル版が観たくてたまらなくなっただけ。

早速制作30周年記念コレクターズエディションを注文し、到着を待つ間"II" と"最後の闘争"はレンタルして観た。両作品ともにこれから何が起こるのか怯えながらTVで1度観ただけだったので、ようやく細かいディテールまで理解できた。カットされていたシーンもあったはずだし。そんなシーンの一つであろう”II”のオープニングは圧巻。
不吉な予兆を感じさせずにはおかないJerry Goldsmithによるメインテーマをバックに、古代の面影の残る街路をジープで突っ走るブーゲンハーゲン。オリジナル版で、かの『メギドの剣』をグレゴリー・ペック演じるダミアンの父に渡すのが彼で、そんなに登場時間は長くないはずだがとても印象に残る。レオ・マッカーン、すばらしい…(DVDの解説でもベタ褒めだった)。
"最後の闘争"は、数多の崇拝者を従え地上に君臨する悪魔の子を倒すべく、悲壮な覚悟で立ち向かう7人の神父たちの姿が痛ましくも美しい。

ivanhoe"最後の闘争"でダミアンを演じたサム・ニールは、私の中では永遠に『アイバンホー』(1982年英米製作のTV映画)のブリアン・ド・ボア・ギルベールである。彼はオリビア・ハッセー演じる美しいユダヤ人の娘レベッカに執心し、略奪するが(ドラクロワの作品に「レベッカの略奪」がある)拒まれ、その後彼女は魔女として火あぶり寸前の窮地に追い込まれる…
何もかも思うがままオレ様な人生を謳歌してきたであろうワルな騎士が、儘ならぬ恋心のために命を落とす姿は忘れがたい。馬上試合のシーンなども含めもう1度観たいものだ。
(海外ではVHSで出てるのね…パッケージ画像が見られてシアワセ)

"虞や虞や 汝を如何せん"

高校時代に習った漢文でとりわけ『臥薪嘗胆』と『四面楚歌』が好きだった。
 "吾が目を抉りて東門に懸けよ 以つて越兵の呉を滅ぼすを観んと" 
等々どこまでも壮絶な前者に対し、タイトルに掲げた一節からも哀切さが零れる後者。
先日CSで観た「さらば、わが愛 覇王別姫」中で演じられる京劇「覇王別姫」は、"四面皆楚歌"された覇王=項羽が愛姫=虞美人と別れるもの哀しい一幕である。以前母がこの作品を絶賛していたが、京劇「覇王別姫」を軸にして2人の京劇俳優とその絆を狂わせる一人の女の因果応報の生き様がものの見事に描かれる。何ものにも汚されぬ固い友情で結ばれていた少年時代を取り戻す一瞬と京劇「覇王別姫」とをシンクロさせた見事な幕切れはやるせない余韻を残す。一番心惹かれたのはタイトルバックとエンディングクレジット、また作中でも印象的に登場する覇王と虞姫を描いた書画。かの愛新覚羅溥傑の作と言われるこの書画を再び観るべく、明日深夜の11月最終放送は録画しておかねば。

さてCL、もしかしてDiegoがいなくてもなんとかなるかも…と思い始めていたレアル戦だったけどここにきてなんと守護神Wieseが・・・・・(絶句)。ここまでだってギリギリでがんばってきてるwerderだけど、今夜もなんとか!!!clap & send message

美しいがゆえに際立つ残酷さ

箪笥 オリジナル・サウンドトラック
数日前、映画『箪笥』を観た。
ポスターやTVスポットから連想される展開を望んで観賞したとしたら肩透かしだったかもしれないが(ノベライズを読んだときにはちょっとそんな感じだった)、美術面でこれ以上ないくらいこだわって、選び抜かれて制作されたというそのセンスが好みにピタリとはまった(恐怖映画としてはどうなんだろう…)。
主人公の部屋のライティングビュロー(欲しい...)や儚げで危うい美しさを湛えた少女たちの花模様に囲まれた部屋と二人のロマンティックなファッション。洒落たボトルが並ぶバスルームで父が刃をセットするクラシカルな髭剃り、継母のティータイムを彩る茶器、そして屋敷を建てたロケーションの素晴らしさ・・・
どこか奇妙で張りつめた空気に息が詰まるような屋敷内の描写とは対照的に、光あふれる戸外はこの世ならぬ何処かを思わせるノスタルジックな美しさを放っていて、二度とは戻れない時間の流れの残酷さを感じさせる。
心を粉々に砕くことになる一瞬、そうとは知らず出かけてゆく主人公のラストショットはセンティメンタルなワルツと共にいつまでも胸に残る。

・・・序盤、船着場で姉が妹の手相を見て"何か"を感じ取ったシーンを観ていて、ふとフェリーニの傑作『悪魔の首飾り』で美しい占い女が主人公トビーの手を見たその時の表情を思い出した。女はトビーの不吉な未来(死)を見たが、少女は妹の手相に何を見たのだろう。clap & send message

リュディヴィーヌ・サニエ

8人の女たち某エステ企業のTVCMで見たリュディヴィーヌ・サニエ嬢。ただ美しいだけではなく、頽廃的でヒトクセありそうな雰囲気に魅了されていたその時、ハタで一緒に見ていたコドモが一言。「ぼくはこういうひとすきじゃない」。もっと可愛くて金髪じゃない女の子がお好みらしい。NYに住んでた2歳児の頃、電車の中で金髪碧眼のそれはかわいらしい女の子にかまわれて、親にも見せたことないような顔して喜んでいたくせに(本人は憶えてはいまいが)。しかしまあ、こういうタイプが好みと言われてもそれはそれで心配になっちゃうし(笑)。
彼女について調べてみたら、フランソワ・オゾン監督の「8人の女たち」でパパ大好きな少女(妹)を演じていたのだった。この作品ではお姉さん役にばかり目が行ってしまって、ほとんどスルーだった。今度も一度見てみよう。