「謎ときガルシア=マルケス」を読む

どこから読んでも面白いので、どこと意識せず開いてみたページを読む。思わず頷いた記述があったので、忘れないように記録しておく。

"人が往々にして落ち込むのは意識が自己だけを見つめる時であることはよく知られている。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは「幸せとは自分自身の外へ出ることである」という意味のことを言っているが、要するに幸せになるためには自分の外に愛する対象を見出さなければならないということに他ならない。"


謎ときガルシア=マルケス / 木村榮一 著
新潮選書, 2014.5.25 発行

#Garcia Marquez


 

「謎ときガルシア=マルケス」を読む前に映画「エレンディラ」

ガルシア=マルケスが亡くなってもう4ヶ月も経ってしまったのか。
図書館に予約を入れていた「謎ときガルシア=マルケス」がようやく手元に。

高校の日本史の授業で、銀縁のメガネをかけ無精髭を生やして、よれっとしたスーツがトレードマークだった教師が、おもむろに映画「エレンディラ(ERENDIRA)」の話をはじめたときのことは今でもよく覚えている。

それは、自らの過失で祖母の持っているすべてを燃やしてしまった少女エレンディラの物語。燃えてしまった財産を贖わせるため孫娘の身体を売って砂漠を旅する祖母。やがてエレンディラは恋に落ちて、その恋人の手にかかって祖母は緑の血を流して死に、エレンディラはどこかへ走り去る…。

語るに連れて感情をどんどん昂らせてゆく教師に最初は引いていたが、語られた幻想的なイメージの断片〜宙を泳ぐ魚、緑の血、そしてラストシーンの描写〜が一体となって、原作者であるガルシア=マルケスの名が深く刻み込まれた。

すぐに原作の短篇も読んだし、その他の短篇や『百年の孤独』も読み漁り、映画「エレンディラ」もビデオを借りてきて観た。OPの少し悲しげで物憂い感じの音楽がまず好みだった。アマディスという姓が刻まれた寂しい二つの墓が映し出され、エレンディラのモノローグで物語は開始される。

 "祖母が入浴してたとき ・・・ 不運の風が吹き始めた"

不運の風は睡魔に襲われたエレンディラの隙をつくようにろうそくを倒し、祖母の屋敷も財産もなにもかもを燃やしてしまう。 映画の原作は「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」という短篇に、「愛の彼方の変わることなき死」という短篇が巧みに組み合わされていて、その部分がなぜだか特に印象に残っている。

エレンディラは祖母の言いつけで町の有力者のもとへ着飾って出かける。屋敷の外のベンチに坐って待っていると、蝶の形をした紙がひらひらと宙を舞っているのを見つける。エレンディアが追っていくとそれは壁に止まる。紙だったものはリアルな蝶の姿になり壁に同化してもともとそこにあったかのように壁に描かれた蝶になる。

待っていた町の有力者が現れ、エレンディラが彼と屋敷の中に入ると、扇風機の風に煽られて数多の紙幣が部屋の中を舞っている。。。東京事変の『今夜はから騒ぎ』のPVを観たとき、すぐにこのシーンが思い浮かんだ。この曲とPVはとても好きでよく観るのだが、終盤の、宙を乱れ舞う紙幣に向かって両腕を掲げ、墨染めの袖をなびかせて微笑む浮雲氏のショットと、その後の演奏シーンでの氏の横顔と喉ボトケにいつも見惚れる。

エレンディラに恋をするウリセスの、繊細で儚くて、エレンディラの祖母に"天使"のようだと形容される美しさ、祖母の「オルフェウスの窓」のラスプーチン並みに強靭な生命力(=毒が効かないこと)と刃物を刺されたときに流れる緑の血。。。ガルシア=マルケスその人が脚色しているだけに、原作に忠実に表現され、そのラテンアメリカ✕超現実的世界観は映像と音による刺激によってより一層高められている。

"彼女の不運の元になった『風』"や"土煙の向こうに現れた、行く手を阻む十字架を掲げた伝道師の一行"、"密輸商人が運ぶダイヤモンド入りのオレンジ"... 随所に現れるモティーフは詩的で童話的である。ときに猥雑でときに静謐。美しく幻想的なシーンと台詞が散りばめられ、映像はどの場面も絵になって、音楽もすばらしい。

映画のラスト、エレンディラの祖母をその手にかけ、精も根も尽き果てているウリセスを置き去りにして、エレンディラは祖母の黄金のチョッキを掴んで、砂丘を走り去ってゆく。

始まりがそうであったように、彼女のモノローグが物語を締めくくる。


            "私は鹿よりも速く風に向かって走った
             誰の声も私を止めなかった
             私の不運の行方を知るものはいない"


モノローグが終わる頃には、エレンディラの後ろ姿も砂丘の向こうに消え失せて、砂の上に足跡だけが残される。

"最後、エレンディラの足跡が血のように真赤に染まるんですよ”

ラストシーンについて熱く語った日本史の教師の口調が今も鮮明に蘇る。やがて画面全体が赤く染まって血の色だった足跡は黒い影になり、残像を刻印する。

 #Garcia Marquez #erendira #bookweb clap!

Polanskiの魔力/Krzysztof Komedaの旋律

海が近いわけではないのだが、この時期海鳥の啼き声で目が覚める。今棲んでいる部屋は、外で発せられるあらゆる音が反響する。窓を開けて過ごす今の季節はときに拷問のように神経を逆なでするのだが、海鳥だけは別。夜が明けると哀しい声を響かせて旋回する。

Roman Polanski監督の『Cul-de-sac (袋小路)』でも海鳥の啼き声が哀しく響く印象的なシーンがある。実業家の男が若い女と再婚し、満潮になると四方を海に囲まれる孤島の城にふたりで暮らしている。私にとっては憧れを絵に描いたような生活であるが、ふたりにとってはそうではないらしい。それどころか閉塞感に苛まれ、その行き止まり感はまさに袋小路。

男を Donald Pleasence (ドナルド・プレザンス:「刑事コロンボ」の犯人役、品があって心に残る)、彼が再婚した若く美しい女を Françoise Dorléac (フランソワーズ・ドルレアック:25歳で事故死してしまうなんてつくづく惜しまれる)が演じている。ドルレアックの退廃的な美しさ。男を破滅させる女。ある日ふたりの棲む島へ招かれざる客が闖入し、事件が起きる。緊張の糸がぷっつりと切れ、ふたりの閉塞状態は解消される。女が男の元を去って往くから。

男は明け方の潮が引いた海を走り、海に突き出た小さな岩の上にしゃがみ込む。無数の海鳥が哀しい啼き声を響かせ、男はたぶん前妻の名なのだろう女の名を叫び、泣き崩れる。男の頭上を飛行機が通り過ぎてゆく。そしてエンドマーク。

この映像とラストシーンで流れる音楽がすごく好きで、ここだけHDDに録画してあってときどき観る。イングランド北東部ホリー島のロケーションや城として登場する修道院だった建物の雰囲気は好きだが、主だった登場人物がみな奇妙で、中盤にとんでもなく腹立たしい子どもが出てきたりするので全部通して観たいとはあまり思わないから。数年前 iTunes Store でこの曲と思われるものを購入したが、曲の終わりが映画と違ってがっかりした。じんわりと余韻が残る、映画のフィニッシュで流れる音楽のあの終わり方が好き。そして頭の中ではこの旋律が廻り続ける。

同じポランスキー監督の『Rosemary's Baby (ローズマリーの赤ちゃん)』の lullaby、"Sleep safe and warm" も1度聴いたら頭を離れない。OPクレジットで流れるマンハッタンの眺め。セピア色の高層ビル群。メトロポリタン美術館の背中からアッパーイーストにカメラは流れ、セントラルパークを越えてアッパーウェストのダコタ・ハウスを映し出す。俯瞰したダコタハウスの外観が、「ヨーロッパ城物語」というTV番組(たまにお城に伝わる背筋が寒くなるステキな伝説が披露されて愉しい)に出てきそうな雰囲気で胸の鼓動が少し早まる。

「ヨーロッパ城物語」で一番印象的だったのは、イギリス・グラームズ城の秘密の部屋の伝説。城の中心となる塔のメインホールの壁の裏に、秘密の部屋が隠されていているという(その証拠は外壁に不自然に残された鉄格子)。伝説によると、"安息日に悪魔とトランプをしていた一族の者が、そのまま部屋ごと壁の中に塗り込められてしまった" という。締めくくりもいい。"18世紀の末から活躍した詩人で小説家のサー・ウォルター・スコットは、ここグラームズ城に次のように書いています。『生きているという実感が次第に薄れて、死が間近に迫っているように感じられた』・・・

話しを元に戻して、ロマンティックで優美な字体のOPクレジットとミア・ファローの繊細な声色。洒落た白を基調にしたアパートメントの内装とインテリア、可憐なローズマリーのファッション。そこにあのストーリーを組み合わせるポランスキーの感覚が好きだ。

音楽を担当しているのはKrzysztof Komeda。美しくて叙情的で、心のどこかがざわつく旋律。今日も頭の中でヘビー・ローテーション。


#Krzysztof Komeda #Polanski #Cul de Sac #Françoise Dorléac #Rosemary's Baby #Glamis Castle
web clap!

以下自分用まとめ。

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"空に消えてった 打ち上げ花火" 〜 8月7日 神宮球場

昔は地元の横浜スタジアムの自由席でビール片手に、横浜大洋ホエールズを応援したりもした。たいていデーゲームの途中にスタジアムに入ってのんびりと観戦して過ごしたものだが、一度スタンドの階段で席を探していた最中、高いファウルフライが打ち上げられ、そのボールが後頭部を掠めるように落ちてきたときに初めて気づいて肝を冷やした。

地球は自分を中心に回ってると思ってるようなチームや、財力に物言わせて優秀な選手をかき集めるようなチームは嫌い。5年周期でミラクルを起こすが、それ以外は勢いで戦ってる(ように見える)チームや、打撃陣の破壊力たるやもう笑うしかないくらいすごいのに、ときにそれ以上の破壊力でゲームを崩壊させる投手陣がいるチームなんかに心惹かれる。

8/7の神宮球場のヤクルトスワローズvs阪神タイガースのナイターをTV観戦していたら、その夜はイベントが用意されていていた。以下スワローズ公式webより

"8月7日(木)阪神戦(18:00試合開始、神宮球場)5回裏終了後の花火打ち上げ時に、元「Whiteberry」ボーカルの前田由紀さんが来場し、スワローズのチャンステーマとしてもおなじみの大ヒット曲「夏祭り」の生歌披露を行ないます。前田由紀さんの歌声と共に神宮の空に消えていく打ち上げ花火を観賞しましょう!"

全然知らずに観ていたのだったが、粋なイベントだった。ノリのいい阪神ファンのおかげもあって、無伴奏の独唱部分の大合唱、『ワッショイ、ワッショイ!』の掛け声などなど盛り上がって観ていて楽しかった。花火も綺麗で、「夏祭り」気分を味わった。

「夏祭り」の歌詞のせつなさと、夜空に華やかに咲いて消えてゆく美しき炎色反応の儚さが胸にじんと来た。youtube

 

"僕の手・・・" 〜 映画『Santa Sangre』



アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「サンタ・サングレ 聖なる血」のビデオを数年ぶりに観た。

これまで鑑賞した中で1,2を争うくらい好きな作品だが、観たいと思う気持ちと自分の状態が合致しにくくて遠ざかってしまっていた(同監督の『エル・トポ』も同様で、好きなのだけれどもう何年も観ていない)。初めて観たのはもう随分と前で、深夜にTV放送された時に予約録画をしたものの、なかなか観られず時間がかかった。観る勇気がなかったからだ。

この作品の存在を知ったのは、当時新作が出ると欠かさず読んでいた原田宗典氏のエッセイに書かれていたからだった。"ホドロフスキーとグリムの血"をいうタイトルでそれは記されていた。

グリム童話はなかなか侮れないというイントロダクションに続いて、ひとつのグリム童話『手なし娘』が例に挙げられる。以下氏のエッセイから抜粋してみる (source : 1992年 大和書房;1996年 集英社文庫「できそこないの出来事」)。

"貧しい粉ひきが悪魔に出会い、「水車小屋の裏にあるものをくれると約束したら、お前を金持ちにしてやる」と持ちかけられる。水車小屋の裏にはリンゴの木しかないので、粉ひきは喜んでその申し出を受ける。ところが家へ帰って水車小屋の裏へ行ってみると、そこには自分の娘が立っていた。やがて悪魔は娘を引き取りに来るが、娘の両手が清められているために近寄ることができない。そこで悪魔は「娘の両腕を切り落とせ」と粉ひきに命じる。娘はそれを聞いて、健気にも両腕を差し出して切り取らせる……。"

氏はこの童話と似通った話をどこかで聞いたような気がして、二日かけてあるビデオに思い当たる。それがホドロフスキーの『サンタ・サングレ 聖なる血』だった。氏のエッセイはこう続く。

"この作品に登場する主人公の青年の母親は、両腕がなかった。全身に刺青を入れた女と乳くり合う自分の亭主を見つけて逆上し、劇薬を彼の股間にぶちまけたところ、怒りをかって両腕を切り落とされてしまうのだ。"

一体どんな映像なのか・・・
エッセイは、この作品の"隅々まで行き渡った監督ホドロフスキーの特殊な美意識に圧倒され、胸の中がざわざわした"と、”陰惨きわまりないストーリーが展開され一部ではホラー映画として取り沙汰されかねない内容であるにもかかわらず、凛とした美しさを保ち、どこかしら懐かしい雰囲気を漂わせているのではなかろうか”と結びの手前で綴っていた。

これはぜひ観たい。そう思った情熱が少し薄れてきた頃に放送があったのだと思う。予約録画をして、しばらく経ってから鑑賞した。


俗の中の聖、穢の中の清純。
凄惨さや、人の世の穢さの一切は浄化されて、美しい映像とせつない音楽が幻燈のように頭の中を巡りつづける。

少年魔術師フェニックスと少女曲芸師アルマの出逢い、ふたりの交感、鼻から血をぼとぼとと流して死んでいく象、その象を仲間として見守り、葬列に喪服でつき従うサーカスの団員たちと彼らに漂う物悲しさ、一見おぞましく思えるフェニックスの母が崇める両腕のない聖母を祀った粗末な教会の内部の静謐さ、フェニックスを慈しみ支える友達="世界一小さな象使い"のアラディンそして道化師たち。

真っ昼間から飲んだくれている父親、身をくねらせる刺青の女、俗物の町の司教。これから象の棺が落とされるその谷底で待ち受ける野人たち、テレビで見る映画の中のミイラ男になりたいと願うフェニックスが調合する怪しげな薬、死んでしまった象の如く鼻から血を滴らせるフェニックス・・・グロテスクだったり滑稽だったり胸が悪くなるような描写の洪水の中にあって、原田氏云うところの"凛とした美しさ"が際立っている。

終盤、フェニックスが母親の呪縛から解放されると、それを待っていたかのように道化師たちは手を振りながら消え去る。友達のアラディンもフェニックスにサヨナラを言って、後ずさりながら姿が薄れて消えてゆく。

ラストシーン、フェニックスは父と母の惨劇が起きる前、あどけない少年だった頃となんら変わりのない無垢さで、愛おしそうに上に掲げた自分の両腕を見つめて「僕の手」と何度も繰り返す。すべてはこのラストシーンのため。
不死鳥は解き放たれ、羽ばたく。

 
 

"私は手を差し延べ、我が魂は
渇いた地のようにあなたを慕う

道を教え給え
我が魂はあなたを仰ぐ"      

                  詩篇 143.6,8




"I stretch out my hands to thee:
 my soul thirsts for thee like a
 parched land...
 Teach me the way I should go
 for to thee I lift up my soul."

              Psalms, 143.6,8.



フェニックスとアルマのシーン、アラディンや道化師たちとのシーンで流れる音楽がとても好き。ラストシーンに上記詩篇の字幕がかぶさりEDクレジットへ。EDテーマが特にいい。→  



後日、録画したビデオは妹に譲って市販のビデオを購入した。そのパッケージの解説面にこうあった。

天使のファンタジーか?悪魔の地獄絵か? "

まさしく。



"道化師"といえばフェリーニの『道化師』、 ルオー, 三岸好太郎の絵画。"ナイフ投げ・曲芸師"で思い浮かぶのはルコントの『橋の上の娘』, フェリーニ『道』。先月だったか先々月だったか、最高画質版の『道』をTVで観た。ザンパノとジェルソミーナが旅の空の下で知り合う、自分の宿命を受け入れて慎み深く慈愛に満ちて生きる修道女の生き様に惹かれた。

久しぶりに『橋の上の娘』が見たくなった。

 #Santa Sangre #Jodorowskyweb clap!

"困ったときには、この手の形"

ドイツ優勝で幕を閉じたW杯からもう2週間近く経つ。
ときどき録画していた試合を見て過ごしているが、ニコ・コヴァチ監督が胸に手を当てて国歌を歌っているシーンを見たとき、かなり昔に「美の巨人たち」で放送されたエル・グレコ『聖衣剥奪』の回を思い出した。

放送が開始された当初の、この番組のクオリティーの高さには毎回唸らされた。テーマとなる作品を紹介するための筋立て、要所で流れる選びぬかれた音楽。そしてこれは今も変わらない、小林薫氏の酸いも甘いも噛み分けたナレーション。この『聖衣剥奪』の回も放送開始当初に放送されて、録画をしたのはVHSビデオデッキだった。


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愛娘を亡くしたばかりのペドロさんは、2週間前にピレネー山麓の村を出発し聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の旅に出た。その途上、彼はトレドに向かう。その目でどうしても観たいものがあったのだ。トレドの大聖堂にある『聖衣剥奪』。肉体は失くしてもその魂を地上に留める彼の愛娘は、誰にも見咎められることなく、父のトレド行きに付き添う。

放送はそんな筋立てで、グレコが絵を描いて生きるため数々の辛苦に立ち向かわなければならなかったことと、ローマを去ってトレドに来たいきさつ、トレドを自らの新天地とするために全身全霊を籠めて描いたのが『聖衣剥奪』であったことがナレーションで語られた後、『聖衣剥奪』に描かれた謎が提起される。

"では最後の謎です。キリストの不思議な手の形。苦しみと哀しみに打ちひしがれたとき、生きてゆくために…"

謎を解く鍵は、イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラが著したグレコの愛読書「心霊修養」の中にあると云う。

 "手の指を開き 中指と薬指だけを閉じなさい
  罪が犯されるとき、人生の中で困難に出遭ったとき、
  絶望の淵に立たされたとき
  その手を痛みつづける胸に当てなさい"

そしてナレーションはこう締めくくる。

--- 困ったときには、この手の形。誰かがあなたを救ってくれる ---

トレドの絡み合う路地で迷子になった娘が父を見つけたとき、父は『聖衣剥奪』の絵の前で胸に手を当てて泣いていた。娘はあることに気づく。父はあの手の形ができなかったのだ。娘は云う、「そんなお父さんが好きだった」。念願を果たしたペドロさんは巡礼の旅へと戻り、娘の魂は地上から去る。

『聖衣剥奪』が画面に映し出されるときに流れる「アダージョ ト短調」、他のシーンでは「小フーガト短調」「アルハンブラの想い出」、昔々のTVCM"サントリーRoyal ガウディ篇"のBGM、「カッチーニのアヴェ・マリア」など、音楽も秀逸でテーマを一層ひきたてていた。

このイエス様の手の形、右手ではすぐできるけれど、左手はその瞬間に構えてしまうと少しプルプルしてしまう。国歌を歌うわけではない私は胸に当てる手をこの形にして、コヴァチ監督の胸の痛みが少しでもやわらぐよう、クロアチアの誇りのために闘い続ける指揮官に幸運が訪れるよう、祈りを捧げる。

つれづれ

ずっとこのブログを放置しっぱなしだったけれども復活してみようと思いアクセスした。映画「太陽に灼かれて(Burnt by the sun)」について触れてあるページで更新が途絶えていたのだが、ちょうど先週CSでこの作品と続編『戦火のナージャ』が放送されていたので観ることに。「太陽に灼かれて」でその愛らしさでスクリーンを輝かせたミハルコフ監督の娘ナージャ(Nadezhda Mikhalkova)もすっかり大きくなって、歳月の流れをひしひしと感じる。youtubeで悲惨な戦場のシーンだけはチェックしていたのだが、ただただ凄惨。はなればなれの父と娘が凄惨の極みにあって思い出すのは「太陽に灼かれて」で描かれた平穏で幸福感に満ちた川遊びの日の思い出。光を湛えた過ぎ去った時間の美しさ。現在と過去のコントラストが鮮やかで胸をしめつけられた。完結編が早く観たい。

最近読んで面白かった本>ユング自伝, 人間と象徴(ともに上下巻)
 

聖夜に『疲れた太陽』

この曲を初めて耳にしたのは映画『白の愛』の中の登場人物が口笛で吹いていたシーンだったと思う。東欧の哀愁をひしひしと感じて深く胸に残った。
次に聴いたのはノルシュテインの『話の話』。幸せそうな恋人たちがこの曲に合わせてタンゴを踊る。そうしている間に男たちがひとり、またひとりいなくなる。男たちは戦地へ送られたのだ... この作品ではバッハの平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第8番 変ホ短調プレリュードが流れる一連のシーンもとても好きだ。
3度目に聴いたのがニキータ・ミハルコフ監督の『太陽に灼かれて(Burnt by the sun)』。
オープニングクレジットでそれは流れる。

 
 "偽りの太陽が昇る
灼き尽くされた海を
そのとき君は言った
もう愛していないと
 
私の心は恐怖でこわばる
でも痛みや哀しみはない
朝の光の中で君は言う
もうこれで終わり
 
ケンカはやめよう
こうなる運命なんだ
君と私どちらも同じ
 
偽りの太陽が昇る
灼き尽くされた海を
そのとき君は言った
もう愛していないと"

(日本語訳: 字幕より) >♪ 

光に満ちあふれたような日々を送るマルーシャの元に突然現れる幼なじみのミーチャ(Oleg Menshikov)。彼が放つピンと張りつめた緊張感。。。
 
歌詞を知ってなおさらこの曲が好きになった。

#​Burnt bu the sun #Oleg Menshikov #Nikita Mikhalkov #cinema <a href="http://grisaille.main.jp/patipati/index.cgi" target="new" title="読んでくださってありがとうございます!クリックしていただけると嬉しいです" alt="読んでくださってありがとうございます!クリックしていただけると嬉しいです"><img src="http://grisaille.main.jp/patipati/img/clapzero2.gif" onmouseover="this.src='http://grisaille.main.jp/patipati/img/clapthanks.gif';" onmouseout="this.src='http://grisaille.main.jp/patipati/img/clapzero2.gif';" align="right" alt="web clap!" border="0"></a>

持ち歩けるLisa Larson!

★新作★Lisa Larson  ライオンぬいぐるみキーホルダー
憧れのリサ・ラーソンの陶器の置き物。どれも愛らしく、円みのあるフォルムがあたたかい。ライオンくんがキーホルダーで登場。触り心地も良さそうだし、欲しい... 
参考サイズ:W7.0cm×H9.0cm×D7.5cm


先週雪虫を見た。

今日は温度が下がって、コドモが学校に出かける頃から10時くらいまで雪がときどき横なぐりに降っていた。

今はそんな光景がまぼろしだったかのように陽が照っている(と思ったら曇ってきた)。冷える。。